バウハウス100周年とトムフォルクナー
オーセンテリアのブランドの一つである「トムフォルクナー」が100周年を迎えるバウハウスに関して、ジャーナルを発行しました。バウハウスのデザインに対する哲学、現代のアートやプロダクトデザインに与えた影響、デザイナーであるトムフォルクナー本人のバウハウスに対する想いが語られていて大変興味深い内容でしたので紹介させていただきます。
Tom Faulkner / トムフォルクナー
90年代前半にデザイナーとしての活動を始めたトムフォルクナーは、その後、数々のインテリアアワードを受賞し、クリエイティブな家具デザイナーとしての地位を築いてきました。バウハウスのアプローチを称賛するトムがデザインする家具は、金属に大理石、木材、ガラス、レザーなどを組み合わせたクリーンなラインと力強さが特徴的で世界中から多くの支持を集めています。
100 Years of Bauhaus | バウハウスの100年
今年は歴史上、最も影響力のあるデザインスクールが100周年を迎えます。そのデザインスクールは14年間(1919-1933)しか存在しませんでしたが、現在、私たちの周りにあり日常的に利用するものに大きな影響を与えました。そしてそれはトムフォルクナーにとっても大きなインスピレーションの源でした。
M_H.DE [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
建築家のヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)によってドイツのワイマールに設立されたバウハウス(”Bauhaus” 文字どおり「建物の家」)は工芸と大量生産の境界をなくそうとしていました。そのアプローチはモダニズムの結晶とも言えます。バウハウスの目論見書には「これまでの芸術は、私たちの日常生活とはかけ離れたもので、格式ばった重要性のために機能してきました、しかし芸術とは本来人々が誠実で健康に暮らす中に存在するものである」と書かれています。それ故に良いデザインを生み出すカギは芸術と日常生活を再統合することにあると。
それを実現するには、形状と機能が統合され完全なるハーモニーを生み出すようなデザインをする必要があるとバウハウスは言っています。バウハウスはこの考えをイギリスの19世紀のアート・アンド・クラフト運動のリーダーでありトムにとってのヒーローでもあるウィリアム・モリスから受け継ぎ、それを別のレベルに引き上げました。装飾のための装飾は姿を消し、その代わりに、美しさはクリーンな描線や幾何学、および素材が持つ固有の質感により実現されるべきであるとバウハウスは唱えました。
Tea Infuser and Strainer, Marianne Brandt
バウハウスのディレクターであるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ( Ludwig Mies Van de Rohe)は、印象に残る2つのフレーズでそのアプローチを要約しました。Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)やGod is in the detail(神は細部に宿る)。この哲学は、デッサウにある学校の象徴的な建築物の中にはっきりと見ることができます。また同様にバウハウスの金属加工部門の責任者であるマリアンヌ・ブラントによって生み出されたグラマラスな家庭用品の中にも表現されています。
ベルリンチェア / Tom Faulkner
トムフォルクナーのデザインに精通している人にとって、彼がバウハウスと共通の立場を持っていることを理解するのは難しいことではありません。例えば、彼のTubular Steel(鋼管・パイプ鋼)の利用は、家具製造における鋼管の利用を開拓したハンガリーのマルセル・ブロイヤーから直接受け継がれています。 バウハウスの最初の学生の一人であるブロイヤーは、自転車のハンドルバーからアイデアを得ました。鋼管の強度は、カンティレバーチェア(片持ち式の椅子)を設計することを可能にしました。トムが最も賞賛するデザインは1927年にミース・ファン・デル・ローエによって設計されたMR10です。しかし、彼の最もお気に入りの椅子はミース・ファン・デル・ローエがトゥーゲントハット邸(Villa Tugendhat)のためにリリーライヒ(Lily Reich)と共同で作成したブルノチェア(Brno)です。数年前、トムはそれを見るためにチェコ共和国への巡礼をしました。
トムはバウハウスを賞賛しますが、彼はバウハウスの卑屈な弟子ではありません。「私は家具を作る時に同じスタイルでは作りません」とトムは言います。「私はあまり独断的ではありませんが、同じ原則に従います、同じ原則とはクリーンな線、力強い形、装飾を省くことです。私が行うことのほとんどは線と比率を頼りにしています。」その原則と明確に重なり合う2つのフォークナー作品は、そのネーミングと要素的な意味でバウハウスのムーブメントへの敬意が感じられる「ベルリンチェア」と、蒸留され機能的なバウハウスの質感を持つ「エッジテーブル」です。
エッジテーブル / Tom Faulkner
トムも認めていますが、バウハウスは完璧には程遠いものでした。その先見性のある思想と女性デザイナー達の多大な貢献があったにもかかわらず、バウハウスはセクシズムや、その時代にドイツを荒廃させた反ユダヤ主義と無縁ではありませんでした。また、バウハウスは人間性を設計思想から外したことでも非難されています。
それでも、その作品群は美しく、調和がとれているのと同時に非常に実用的でした。バウハウスは何か正しいものを見つけ出すことに成功したのです。そのことは、今では住居のデフォルトの選択肢となっている白い壁や、ガラス張りのオフィスビル、そしてiPhoneの洗練された機能まで、私たちの周りを見渡せばバウハウスの遺産がいたるところに見つかることからもわかります。
その影響が世界中に広まった理由のひとつはバウハウスがひとつの場所にとどまらなかったからだと言われています。1925年にデッサウに、そして1932年にはベルリンに、バウハウスが存在した14年間のあいだに2回も移転しました。そして、そのアウトプットを「退化」と見なしたナチ政権は、翌年にバウハウスを強制的に閉鎖に追いやったのです。
しかし逆説的に言えば、そのことはバウハウスの理念をそれまで以上に早く広める効果をもたらしました。当時活躍していた主な人物はバウハウスの思想やアイデアを手に海外に活躍の場を求めました。この人材の拡散により、バウハウスの中心的な教えと共に、バウハウスが国際的スタイルであると人々に認識されるようになりました。ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)、マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer)、そして“Designing is not a profession but an attitude”(デザインとは職業ではなく態度)の言葉で知られる画家であり写真家のモホリ=ナジ・ラースロー(LászlóMoholy-Nagy)はロンドンに移りました。ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ( Ludwig Mies Van de Rohe)はシカゴのアーマーインスティテュートで建築学科の主任教授に就任し、地球上で最も重要な建築家の一人となりました。彼が生み出したSkin and Bones(スキン・アンド・ボーンズ)の建築様式は、モダニスト建築の最も明確な表現のひとつです。他の重要なプレイヤーはテルアビブに移りました。テルアビブはバウハウス様式の建物が世界で最も集中している場所の一つです。
バウハウスの100周年はドイツ国内のみならず世界中のイベントや展示会で祝われています。詳細については www.bauhaus100.com をご覧ください。
トムフォルクナー社のジャーナル原文はhttps://www.tomfaulkner.co.uk/100-years-of-bauhaus/で公開されています。